天使になった青年の物語
空は曇りとも晴れともつかない中途半端な天気。そして午後三時少し前か。
部屋の中には音楽が流れ出し、明りが点いた。青年は机に向かい、勉強を始める。問題を解きつつもしばしば解答を見ているようで、あまり理解できていないようだ。二、三度階下に水分補給に向かったが、他にこれといった動きはない。相変わらず問題と解答の間を行き来している。音楽は流れたままだ。さて、どれくらいの時間が経ったか、しばらくした後、青年はおもむろに席を立ち、流れていた音楽に一時停止をかけて明りを消した。そのまま再び水分補給に向かい、戻ってくると再び音楽が流れ出した。青年は明りの電源に手を伸ばし、机の咆哮を向いた。少しの間、それもどれくらいの間かは分からないが、動きを止めた。音楽だけがただしんしんと、ただひたぶるに流れつづける。青年は向きを変え、寝床に潜り込んだ。
眠っているのかいないのかもわからないが、時間だけは過ぎて去ってゆく。青年は身動き一つ、寝返り一つうたずに横になっている。部屋はある程度片付けられてはいるものの、幾分煩雑である。流れ出続ける音に共鳴してギターの弦がほんの少し、どんなに耳を凝らしても聞こえない程度に震えた。青年は眠った。
午後六時二分、音楽は止み、青年は目を覚ました。空は曇っているが、西の方からほのかに赤い線が走ってくる。初冬か晩冬か、よくわからないがその辺りだろう。外は静かで、最後の曲の残響がまだ残っているかのようにすら感じられる。青年は仰向けの体を横に倒し、時刻を確認したきり動かない。音がよく響く。車のタイヤがアスファルト舗装の上を走る音が聞こえてきて、遠ざかった。雨でも降ったのだろうか、音は濡れているように感じられた。青年の意識は次第にはっきりと醒めてゆき、喉に渇きを覚えた。しかし青年は依然として起きない。再び目を瞑り、静寂を作り出す。時折車の走り去る音がするが、回数は僅かだ。音楽再生機器の画面の光だけが部屋を映す。
午後六時半過ぎ、青年は遂に起き上がった。喉の渇きもいつの間にやらなくなり、意識は不思議なほど自然にかつ静かに、完全に醒めていた。青年は音楽再生機器の電源を落とし、部屋の明りの電源に手をかけた。青年はまた明りをつけなかった。部屋はどっぷりと暗闇に染まり、静寂は嬉々とした。
青年は向きを変え、窓を開け放った。さほど冷たくない心地よい風が吹き込み、青年を晒す。そのまま窓の桟に手をかけて身を乗り出し、奈落よりも深く息を吸い込んだ。街灯の橙色に包まれたまま、青年は何度も何度も深い呼吸を繰り返した。隣家に郵便が届いたらしい。青年は少し窓から離れる。配達員の言葉の後、車の去る音が続いた。青年は時間が止まったかのように佇んでいた。それは一瞬のようにも思われ、世界の時が永遠の休息を得たかのようにも思われた。青年は開けたままの窓に近づき、今度は桟に足をかけて立った。刹那が再び、むしろより長い永遠に変わった時、青年は空を駆けた。
青年は天使になった。いい顔でもいい体格でもない、ごく普通の青年。だがその背には、はっきりそれとわかる白く大きな翼を携えている。青年は部屋の窓から眺めていた狭く暗い空を抜け出し、大空へと舞い上がった。大きな翼を迷うことなく、さも当然のように力強く羽ばたかせ、青年は雲をも突き抜けた。
青年は雲に隠れていた月に出会った。驚く素振りを少しも見せずに、星に出会った。沈んだばかりの太陽を負いかけ、追い着き、追い抜いた。青年は天使になったのだ。
誰も青年が天使であることに気付いていないし、青年もまたそれを知っている。だからどこへでも飛んでゆける。青年は夏の方へ飛び立ち、常冬を通り、また夏に戻り、冬へ帰ってきた。青年は天使なのだ。
青年は自分が天使であることを知っている。
青年は遠い国で、道に迷って困っている少女に出会った。青年は少女に道標を与えた。少女は感謝と共に去っていった。
青年は遠い国で、家も食べ物もない少年達に出会った。青年は少年達に糧を与えた。少年達は幸せと共に去っていった。
青年は近い国で、自分を見失った若人に出会った。青年は若人にそっと声をかけた。若人は自尊心と共に去っていった。
青年は近い国で、仕事を失った中年に出会った。青年は中年を励ました。中年は新たな希望と決意と共に去っていった。
青年は遠い国で、身寄りのない老人に出会った。青年は老人の望むようにした。老人は優しい眼差しで人生を全うした。
青年は遠い国で、土地を巡って争っている人々に出会った。青年は人々を優しく諭した。人々は協調して暮らしていった。
青年はどの国でも、死人に出会った。青年は彼らのために長い間目を瞑った。死人の魂は新たな望みに変わっていった。
しかし、天使は自分が青年であることを忘れてしまった。
天使は日照りに悩む農夫を見つけた。天使は雨を降らせようとした。しかし、雨は降らなかった。農夫はひどく耐えた。
天使は豪雨に苦しむ村人を見つけた。天使は雨を止ませようとした。しかし、雨は止まなかった。村人は苦しんでいた。
天使は暴風に抗う漁師を見つけた。天使は風を鎮めようとした。しかし、風は鎮まらなかった。漁師は断念しなかった。
天使は干ばつに彷徨う民衆を見つけた。天使は救おうとした。しかし、天使の力程度では救えなかった。民衆は生きた。
天使は研究に行き詰まった生物学者を見つけた。しかし、その研究は難しすぎた。それでも生物学者は研究をし続けた。
天使は産業廃棄物処理に困った業者を見つけた。天使は産廃の処理の仕方を知らなかった。業者はある島に捨て去った。
天使は争い続ける民族を見つけた。天使の諭しは聞き入れられず、止めさせることができなかった。殺し合いは続いた。
青年は天使になった。しかし、天使は青年ではなくなった。
それでも天使の礎となっているのは青年だ。青年は人間である。青年は天使の力を人間のために使った。動物たちのために使われる力は嬉しい。しかし、過剰に使うことによって他の動物を迫害したり自然環境自体を操ったりしようというのは甚だしくもあり、自分自身の力を過信して独りで全てを解決しようというのはおこがましくもある。青年は人間のために自然破壊に加担し、天候を操ろうとし、何もかもをうまく運ぼうとした。天使になった青年は図に乗りすぎた。私は彼を諭すことにした。
私は彼と向かい合った。彼は私を見下ろしていて、私は彼を見上げている。
私は彼に言った。彼は答えた。私は彼に言った。彼は答えなかった。私は彼に言った。彼は答えない。私はそれでも続けた。彼は私を見ている。私は彼に問うた。彼は俯いた。私はなお彼に言う。彼は私の次の言葉を待っている。私はどんどん続けた。私だけが言った。彼は時折静かに俯き、もの言いたげな目をし、苦悶の表情を浮かべた。それでも彼は言葉を発しなかった。私は彼を糾弾していた。地球という私自身を傷つけられもしたのだから仕方なかったのだろうが、それでも彼、つまり天使は青年だ。私は語調を緩め、優しく彼に最後の言葉をかけた。あなたは久しぶりの天使です、これからも私の上に存在するもの全てのために駆けてやってください、と。青年は二言放ち、背を向けて去った。
結局彼の言葉を聞いたのは二回だけだった。どちらかというと低く、そして凄みのある声だった。やはり天使のものとは思いがたいが、それでも心は天使、若しくはその上をいく温もりを持っていた。
彼の最後の二言は私の彼への糾弾どれよりも重たく、意味のあるものだった。彼はこう言った。わかりました、地球さん、あなたもがんばってくださいね、と。私は何も言わなかったのではなく、何も言えなかったのだ。私はこれ以上がんばる。私の上のことは天使がこなしてくれる。私は新しい命を生み出していく。
空は晴天。夜は明けて、午前五時少し前か。
部屋の中に音楽は流れてなく、明りも点いていない。開いたままだった窓から青年が入ってきた。天使になった青年は、その大きな翼をたたみ、少し部屋を見渡して寝床に就いた。もうじきこの辺りも新芽や若葉が萌える。
終わり
あとがき
この話を書き始めたのは定期考査期間中でしたね。あっ、ついでにあとがきは、時雨沢氏に倣って、本文のネタバレを含まないように留意しています。でも抵触するところはあるかもね。
さて、この話を書くに至ったわけですが、実は物語最初、これはまんま俺の生活なんですね。物理がわからなくて嫌になって不貞寝して。あっ、本文の内容入ったか?ま、入ってもいっか。とにかく、文中にもあるように音楽かけてました。そのMD(未だにMD)の一曲目はBUMP OF CHICKENさんの天体観測。で、最後の二曲は中島みゆきさんの銀の龍の背に乗って、鬼束ちひろさんの月光(from ULTIMATE CRASH'02 LIVE AT BUDOKAN)(Single「いい日旅立ち・西へ」のカップリングですね)でした。やる気なかった時やったから曲に聞きほれてて…。まぁ、それで冒頭みたいな時間経過になったわけです。兎に角それで、急に小説書こうって思って、原稿用紙取り出して書き始めたわけです。
「折角ここまで書いたのだから」ということでどうにか後半部分をつけたしました。だから、内容は稚拙でかつおもしろくないものなのですね。
さて、この小説(と呼べるかどうかも怪しいもの)について、反省は書き出したら止まらないのでやめておきます。
あとがきが長いし、ダラダラしてしまった…。これが書きたいがために全部書いたようなものなのに…。
2006/3/14